『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』


「開放システムと閉鎖システムのどちらが優れているか?」


こういう(ちょっと単純化しすぎた)問いを投げかければ、今の時代、ほとんどの人は「開放システム」と答えるのではないだろうか。


閉鎖システムと聞いて日本人が思い浮かべるのは東京電力に代表される階層型で情報を内部に隠蔽するような組織だろう。翻って開放システムの方は、情報の隠蔽はそもそも無理と考え、情報をどんどん発信し、外部ともアドホックにつかず離れずの関係を築くような組織だろう。組織構成員はMark Zuckerbergが考えるようなシングル・アイデンティティの人間が想定され、透明化をもっと進めると理論的には完全情報の市場や直接民主主義制になる。昨今の誰もが情報を発信し、シェアすることの容易な社会は開放システムの部類になるだろう。


僕も10年前ならば開放システムが優れていると考えていた。どんどん一般の人びとが情報を発信し、それを共有することで、隠蔽が難しくなる、そういう透明なシステムに期待していた。直接民主制という話もあったし、Web2.0集合知ということばが2005年、2006年に流行ると、「そうだよな」と感じたものだ。


でもその後、ネットがさらに大衆化し、リアルタイム化し、コンテンツがカジュアル化し、ストリームUIの普及によって高速化し、またモバイル化することで、この開放システムも「どうもおかしい」と感じる気持ちが強くなった。たとえばハワード・ラインゴールドは「スマートモブズ」(2002)なることを言ったが、果たしてそういうモブズがスマートなのか? というのがその第一印象だった。そしてその思いはどんどん強くなり、それよりも津田大介の「動員の革命」(2012)の方が的を得ていると思ったものだ。


さて。西垣は閉鎖システムに注目する(いや注目してきたといったほうが正確だろう)。その理論的背景は(ネオ)サイバネティックスであったり、オートポイエーシスであり、ルーマンの社会システム理論であり、そこから西垣が研究してきた基礎情報学であったりする。つまり外部からの入力によって出力が決定されるような外部から客観的な観察が可能なシステムではなく、外部からは正確には何が起きているかわからない、しかしながら環境に対応するために(というと開放システムと思われがちなのだが)自己言及的に作動し続ける閉鎖的なシステムである。


前者は機械システムで、後者は生命システムである。そしてルーマンが後者を援用して理論化したのが、コミュニケーションをその基本単位として、その個々のコミュニケーションが、次のコミュニケーションを予測しながら産出されつづけるシステムと社会をとらえる社会システム論だ。


で、この本の面白いところは、人工知能と哲学を専門とする西川アサキの研究を紹介しながら、開放システムにおいては変数の値によってリーダーが1人出現する場合もあるが、多数のリーダーが乱立したり、まったくリーダーが出現しない場合もある。他方、閉鎖システムにおいては変数の値によらず1人のリーダーが必ず出現する、と紹介している部分だ。つまり閉鎖システムの方が安定するということだ。


魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)



この違いが起きる理由について西垣はこう推測する(あるいは西川が書いているのかも)。開放システムでは、「透明」すぎて瞬間的にせよ、そこでは一元的で絶対的な価値観が生まれる。そしてわずかな外部環境の変化でグローバルな状況が変化する、と。(西川本はこれから読みますです)


一元的な価値は多元的な価値の対概念となるが、これは本書前半での集合知が機能するためのエッセンスは多様性にあるという議論と接続している。ちなみにここで私が連想したのは、2ちゃんねるよりもブログの方が炎上しやすいという加野瀬未友の話であったり、さらに最近はtwitterで良く炎上するという話だ。


さらに話は続く。今度はその集団に生まれたリーダー同士の相互観察モデルについてシミュレーション結果を見ると、開放システムの場合は、両集団が相互にメンバーを認め合って安定することほとんどないという。デッドロックに陥って動かなくなるか、リーダーができず群雄割拠になるか、または一方にのみリーダーができて、相手を潰そうとする。逆に閉鎖システムでは単一集団モデルのときよりも安定したリーダーが両集団に出現する。さらに単一集団モデルでは出現していた方が的な小さいリーダー群が相互観察モデルではあまり出現しなくなる。これについては、はっきりした相手がいる時は集団が結束するということのようだという解釈。


西垣も、このモデルをそのまま現実の複雑な心身問題や社会組織問題に適用するのは難しい、と指摘している。というのも西川の報告は知覚器官(メンバー)と脳(リーダー)を想定し、非常に単純化されたモデルのコンピュータによるシミュレーション結果だからだ。だが、それを差し引いても十分に知的に刺激的であった。


少し飛ばすと、西垣が今後あってほしいとするのは、人間、それも個人主義的な自律や主体性を基礎としたものではなく、多元的な人間(分人=これは鈴木健の話題の書「なめらかな社会とその敵」におけるカギ概念でもある)と機械的な開放システムが接続した複合システムである。これを人間=機械複合系と西垣は呼ぶが、そのより具体的な姿は機械的なセンシングシステムが人間の持つ主観的な知とリアルタイムに反応しあい、相対的に客観的な知を作るシステムである。そういうシステムからこそ真の集合知は生まれるというわけだ。


西垣は自らを時に「ペシミスティック・サイボーグ」と呼んだりするが、本書からは彼がこの先の社会を良い物にしたいという情熱がまだまだ伝わってくる。


追伸:西垣通さんはこの4月から私の所属する学部へと転任されました。謹んで歓迎し、この拙いポストを捧げます。