100回の同一事件と100個の同種事件の弁別不可能性

1つの事件を100回聞くのと、同種の異なる事件を100個聞くことの区別が人間はそもそもできない(まだできるようになっていない)のではないか 。

 これが明治大学で開催された社会情報学会のシンポジウムでの認知科学者 鈴木宏昭氏の発言で最も記憶に残ったものだった。

シンポジウム企画 | 2015年 社会情報学会(SSI)学会大会

 

「人間とは記号や表象の操作をする存在ではもともとなくて、自分の身体をうまく動かすことが人間にとっての知性であった」という言葉からはじまった彼の講演は、私たちはすべてのシーンをスキャンしているのではないというChange Blindness(徐々に変化した場合に下図の左右の違いに気づかない)、取り出しやすい記憶を優先的に使って判断してしまう利用可能性ヒューリスティックの知見を紹介しながら次のように結論づけられた。

 

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記号や表象に対して、メディアがこうも繰り返し取り上げて、また普通の人が(それも自分に嗜好が近い人が)ソーシャルメディアで発信する情報にも繰り返し触れているとすれば、私たちはまともな判断ができないのではないか。

 

これはもちろん仮説ではあるが、たしかにネットでの情報量が爆発的に増えたのはここ10年以内、テレビだってたかだか60年である。そこには教育効果もさほどないはずであるというのが鈴木の見立てであった。

 

ちょうど先般、初稿を書き上げたツイッターに関する本で、「否定的な感情が込められたツイートは「気持ちを吐き出して」カタルシスを得るために「読み手を特に想定しない」で投稿されることも多い」と実証データに基づいた記述として書いた。コストが低すぎるコミュニケーションやコストが低すぎるコピー行為はなるほど人間の認知の側面からもデメリットを語れるのかもしれない。私は意志の力とのバランスや意味的なノイズとの関係で考えていたのだが。

 

近頃は「コストのかかるユーザーインターフェイス」というのが一つのキーワード。ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』も読み始めているが、その本の帯には「メディアは虚報にまみれている。政治は「頭より心」に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より感情が優る「ファストライフ」から抜けだそう!」とある。