デジタルネイティブ世代間のデジタル・デバイド仮説

木村忠正が2012年に出した『デジタルネイティブの時代』という本がある。

この本を読んだのは今年の9月だったが、これは3年ぶりに接した日本の大学生が全般的に知的好奇心に乏しく不満だったのと、秋から始めた「ネットワーク・コミュニケーション論」の授業にあたっての予備知識を得るためだった。


この中で、木村はデジタルネイティブを4世代に分けていた。最も最近生まれた第4世代は1991年以降の生まれとされる。ちなみに第1世代は1982年までの生まれである。私が今接している現役大学生は20才か21才なので、1992年か1993年生まれである。つまり第4世代。中学生からパケット定額制でSNSに馴染み(どちらかというと狭い友達だけのコミュニカティブな世界)、2010年の高校時代から一部がスマホも使い始めた。


これは木村の本には書かれていない私の見解だが、時代区分として大事なのはスマホ端末の普及(iPhoneの日本における発売は2008年7月)よりも、アプリの豊富さとその普及である。すると、開設は2008年7月のAppStore、2008年10月のAndroid Marketだが、スマホによるネット接続が現在の形に固まっていくのはアプリの登録本数が10万を超え、ダウンロード総数が50億を超える2010年末以降だろう。


はい、ここからはデータに基づいたものではない私の印象による仮説。


スマホでのネット接続がアプリの豊富さとUIで手軽になった彼らのメインのネット接続端末はスマホになっていく。大学生になってもネット接続端末はスマホオンリーという層がかなりいるのが彼らである。文章を書いたりすることが多いはずなのにパソコンを持たない学生もそれなりにいる模様。パソコンは最低限、大学のものを使えば良いというわけである。商品情報はそれなりに調べている感じだが(ブランド名や型番で)、学問やリサーチ、消費以外の自分の興味ある分野を調べるということは、どれだけやっているのかなぁ、という感じ。今年新卒で入った新入社員の検索リテラシーが低いという話も聞いたことあるし。


スマホでのネット接続は汎用ブラウザでリンクをたどってサーフィンという感じではない。しかもダウンロードはわんさかするけど、アプリはせいぜい10〜15の利用で、ほとんど受信である(まあ、大きく言えばこれはずっとそうなんだが)。ソーシャルメディアと動画とまとめサイトとゲームというあたりが定番となり、あとはお好みのアプリを少々。いわばチャンネル数のちょっと多いテレビである。たまたま外部サイトのリンクがアプリの中にあっても、UIイマイチで馴染みのない汎用ブラウザがスマホで立ち上がれば、そのサイトのコンテンツはそんなに読まない。


発信に関しては、短いものがほとんどで、創作物をアップするという習慣に乏しい。ブログ書いている者は著しく少ない。マイクロブログはそこそこいるけど。ひどいのになると(うちの学生にはいないよ)、アーキテクチャリテラシーがないから、「なぜ知らない奴が俺/わたしのツイートに色々言ってくるんだ!」と自分が書いたおバカツイートが反響を呼び、自分のタイムラインがメンションで埋まる理由すらわからない。


さらに、ここがショックだったのだが(これはうちの学生にあてはまる)、投稿は他の人と共有するというよりも、身内に自己アピールないしは単なる連絡という感じで、多くの人あるいは誰かにとって有用な情報を公開することで他の誰かが利用できる、という「シェアの思想」は知らなかったりする(10年後のクチコミサイトはどうなるのだろうか?)。「シェア」という言葉は氾濫しているが、その過剰なシェアゆえ、その意味するところが変わったという感じだ。


人々が共有サイトに投稿するのはポイントが貯まり、アフィリエイトで儲かるからだと思っている(経済学者にCGMの話をすると「なぜ彼らは投稿するのですか?」と聞かれることがしばしばあるが、まあそういう世界になってきたようだ)。だから2次創作なんてわかりやしない。そういう受信型の人が「ネット好きです」と言ってうちのゼミにくるようになった(「評価経済」の話とは逆。もちろん一部の層はクリエイティビティを発揮してうまくネットを使っているわけだからタイトルにあったように「デバイド?」、ということが出てくるわけ)。


というように何となく感じていた第4世代への物足りなさだったが、これが先月末に行われた、ゼミの1期から3期までのOBG会で第2世代の彼らと会ううことで、大きなショック(だから本ブロブ投稿)へと変わる。普段見ていた第4世代の属性が、この第2世代とのコントラストによって非常に鮮明になったからだ。わずか6,7年の違いでこうも違うのかというショックであるが、木村の世代論の説得力を感じた場でもあった。


第2世代は大学時代にミクシィ開始(ユーザー数の伸びということでは2005年半ばから)。この世代は高校時代も含め学生時代は基本ガラケーである。高校時代はパケット代を気にしながらの利用。スマホも2009年に購入していた層はいるが、まだアプリは少なく汎用ブラウザでの閲覧。サーフィンするなら画面の広いPCの方が良いよねということで、ウェブは基本的にPCで接続していた。たしかにmixiゲームもPCだったなぁ。


ここからはまた個人的なフレーバーを。


第2世代については、うちのゼミに来る学生は2タイプいて、1つはメディアとしてのウェブに興味があるタイプ。ウェブにまつわる思想研究をする学生もいた。もう1つは、もともと興味あることがあり、それをウェブで調べるようになり、どんどん知識が増え、仲間も増えてはまっていったというタイプの学生である。だから私も彼らから新しいウェブサービスを教わったこともあった。いずれにしても自ら能動的にネットに関わっていたのが彼らだ。仲間内での会話はmixi日記でのレスで行われ、ブログとの書き分けも行われていた。つまりネットにアップするということは公共空間への役立つ投稿であるべきだし、他の人が参照したり再利用するのだからという意識がそれなりにあった。ニコ動&ピクシブを盛り上げていった初期ユーザー層でもある。


こう考えてくると、むしろ第4世代が運の悪い世代と思えてきた。スマホは便利なものだし、親も使っているし、友だちも使っている。親もそれでのネット接続に気をつけろとは言わない。でもスマホという狭い画面の中でのアプリを使ってのネット接続は、PCといういざという時にクリエイティブな動きができる、大きな画面で汎用ブラウザを使って行なうネット接続は、異質なものであるという意識は持ったほうが良いのではないか。これがこのポストでの私の主張。もちろん仮説です。ひょっとするとデジタル・デバイドを生む、という。この主張は外部から見ると当たり前なのだが、第4世代を中心とする気づかない人は気づいていないというところが怖いわけ。


第4世代の学生諸君に対しては、「あなた達は6,7年前の学生に比べて知的好奇心が乏しい」と言う印象論とともに、「少なくともPCでのネット接続がすぐに出来る環境を整えておくことは重要」、「PCでのネット接続という習慣をなくさないように」と言い続けることが必須というように思えてきた。私の持論が仮説でしかないとしても。


もちろん、たかだか10数サンプルの事例を比べて何を言っているんだよ、という話はあるだろう。つまりたまたまゼミの1〜3期生に問題意識の高い人たちが集まったということ。またかつてはウェブサービスという打ち出し方をしていたのに、今年についてはゼミをネットマーケと広告という打ち出し方をしているというせいもあるだろう(来年は戻してみた)。


あるいはOBGが単に社会人になって業務でPCを使っているだけ、つまり今の第4世代も6,7年したら同じになるということなのかもしれない。さらに言えば、業務で使う端末に無関係で単に社会人と学生の違いという話だけかもしれない。だが、そういうことがあったとしても、この私の直感はとても深刻な問題を生む可能性がある。ネットの大衆化は不可逆な流れだとしても、うちのゼミの学生には、スマホ+アプリのネガティブ・サイドの可能性については意識的でいてもらいたいと思う。


今、情報過多の問題をリサーチを進めているが、これまでこの概念は主として経営学分野で意思決定の質との関係で論じられてきた。ところが今のソーシャルメディアを中心とする情報過多(社会的相互作用過多)は、意思決定と連動したものではない。つまり意思決定の質の低下を感じて情報量をコントロールするという契機が生まれにくい。だから、われわれの他の活動時間をどんどん奪っていく可能性が高い。それもスマホ+アプリで。


その「スマホこわいかも」という点に「孤独でいる時間を維持せよ」という観点から警鐘を鳴らしたのが、『Alone, Together』の著者であり、TEDでは『Alone, Connected』というタイトルでしゃべったSherry Turkleである。孤独の話については、私はTurkleと非常に似た考えの持ち主である。今回はこれ以上触れないが、関心を持った人は上のリンク先ビデオを見てみて欲しい。


ということで(とやや論理が飛躍するわけだが)、冬休みはラジオ関連書籍2連発で過ごそうと考えている。小説が読みたくてたまらないので、1冊はいとうせいこうの『想像ラジオ』。『ノーライフキング』以来だぞ。そしてもう1冊は、20年ぶりに読みなおすことになるのだが、アメリカにおいてラジオが双方向無線から一方向のマスメディアへと変容・発展していった歴史(すなわち大衆化とビジネス化の歴史)を綴った『メディアの生成』である。このポストで綴ったこととのアナロジーがそこからは見えてくるかもしれないし、現在準備中の書物に水越さんの政治経済的な力学の分析が参考になるかもしれないので。


では、みなさん、良いお年を。
今年は10ポストだったので来年は8を目指します。


想像ラジオ

想像ラジオ

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史


[追記]
ゼミ学生とこの件について改めて話してみた。


曰くスマホ+アプリでも「受信」というわけではなく、発信もかなりするようである。ただし会話や連絡のための手間をかけないコンテンツであると。『フリーカルチャーを作るためのガイドブック』をゼミで読んだので、よくわかっているのだが、やはり創作物のアップロードという習慣はほとんどない。


ただしスマホの汎用ブラウザでもそれなりにネットサーフィンはするらしい。でも、それは時間やコンテンツの消費であり、知的な活動ではないというところはそのようだ。


13名の学生のうち、全員がスマホは所有しており、自宅にPCも所有していた。時間ベースでスマホでのネット接続がPCからのそれを上回っていると(直感で)答えた者が9名。逆に4人がPCでの接続時間の方が多いわけである。学業成績で言うと、後者4人の方が良さそうだが、私は自分の担当していない科目についてはわからない。


むしろゼミでの活動を通じて言えるのは、この4人が確実に興味あるものを持っていることを私が知っていることである。たとえば彼らは相対的に研究テーマの抽象度が高く、それを論じるための調査方法まで含めて検討する。対照的な学生は、具体的な現象に興味があるからそのことそのものを調べるというパターンである。


ま、学生にも話したけど、私は何も世代だけで説明できるとは思っていない。ただ、その手の情報消費活動だけにインターネットを使うのはあまりに損をしていないかということは言っておきたい。

ボタン・コミュニケーション

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あまりにご無沙汰していましたので、ささっと書いてアップしてみます。「それなりに」とか曖昧な表現が多いのは勘弁して下さい。


うちのゼミはインターネット・コミュニケーションを、特にウェブサービスやマーケティングとの絡みで研究するところ。かつてはウェブ好きが多くて、学生から新しいウェブサービスを教わったりということもあったのだが、最近はネットがあまりに普通になりすぎて、そういうことも減った。しかもマーケティングなんてのは誰もが興味を持ちうるある種つまらん話だから、「そういうのやっておくと就職によいかも」という邪な動機で入ってくるのもいる。ヤフーとアメーバとYoutubeとZOZOTOWNしか利用していなかったりするのがね。


さてそんな学生たちと、ボタン・コミュニケーションについて話したので話題提供。もう少し具体的に言うと、フェイスブックの「イイね」とツイッターの「お気に入り」について。


どちらもボタン一つで、その活動が相手に伝わるきわめてローコストのコミュニケーション手段である。このうち大きなところで学生の意見が一致したのが、「イイね」の方である。これは、相手に自分の意志を伝えるボタン。もちろんその幅は「あなたに関心がありますよ」から「本当に良かったね」まである。投稿内容を読んでいなくても「イイね」をつけておくという学生もそれなりにいた。


ただ「イイね」ボタンは「ほとんど使いません」という人もそれなりにいた。その意味するところは、「イイね」を押すにしては、ほとんどが大したことのない投稿だからというけっこう冷徹なものであった。


逆に私のまわり(のおじさんおばさん連中)でそれなりにいる、「イイね」ボタンだけでは「伝えたい気持ちが伝えきれないから」という意見は学生には見られなかった。つまりボタンよりも「コメントを書きたい」という考え方である。この手の意見はブログを書いているような人に多い。逆にショートメッセージ世代では出現しにくいのかも。


私自身も、このタイプで、あまり「イイね」はしない。もちろん多くのケースで「イイね」にも値しない「大したことないでしょ」的な評価を私に下されるコンテンツも多いけど。でも、じゃあ「大したことある」コンテンツのコメント欄に書くかというと、コメント欄にも大したコメントが並んでいないからそこにも書けない。かつてはそのコメント欄のトーン&マナーを汚さないために、相手のウォールに書いていたこともあったけど、最近はダイレクトメッセージかな。もといフェイスブックへの関心が薄れて気味だからそれもしなくなっているというのが実のところ。


ではツイッターの「お気に入り」に移ろう。こちらは自分自身があとでツイートを楽に探せるようにという意味で使っている学生諸君がかなりいる。あるいは「あとで読む」のためにつけられてもいる。これはうちのゼミがツイッターでの情報収集、すなわち向こうから自分の関心分野のニュースが入ってくる環境を作らせていることもあるだろう。「イイね」にはない使われ方だ。


一方で、当然のことながら「イイね」のように相手に自分の意思を伝える意味で押しているケースもある。つまり「お気に入り」の使用目的は大きく2系統に分岐している。そしてどうもその意思を伝える際の手軽さは「イイね」よりも上のようである。そもそもツイッターに流れてくるコンテンツが、フェイスブックに流れてくるそれよりもよそ行きでないからかもしれない。


恐らくツイッター自身は、「お気に入り」は検索機能的に使われることを想定していたのではないか。というのも、「お気に入り」を「イイね」的に押す習慣のある学生から、「あの「お気に入り」が沢山ついたツイートが「#見つける」(タブ)でフィーチャーされて、誰が「お気に入り」を押したかがわかるようになってしまうのは勘弁して欲しい」という意見が出たからだ。これは自分が誰にお気に入りしたかが可視化されることが生み出す、面倒臭さのエトセトラへの危惧なわけだが、ツイッターはこういう使われ方をあまり想定しておらず、単純に価値ある情報に「お気に入り」をして欲しいのだろう。


とにかく3年ぶりぐらいで日本の学生とつき合って感じるのは、彼らが本当に人間関係とコミュニケーションスキルについてかなり悩んでいるということだ。ただ、IT絡みについては同調圧力に任せるままという感じで(それがアーキテクチャの力なのだろう)、むしろその下地になる通常世界でのコミュニケーションスキルへの関心がとても強い。


冒頭で説明したような私のゼミでも、夏休みに好きな本を選んでレポートを書かせると、「聞く力」とか「受け入れられる話し方」とか「誤解を招かない表現」みたいな本が選ばれる。ということで、ついに来年度は、デジタルメディア系の教科書を導入することにした。もっとネットの世界に関しての研究をしてもらわないとろくにアドバイスもできやしない。

Twitterから見る文化差

日本のTwitter利用に関する調査を始めている。それで「Twitterはソーシャルメディアというよりも、ニュースメディアである」という通説とは異なる研究がないかなと頭の片隅に入れながら、芋づるで論文を読んでいったらこういう研究に出会った。
Cultural Dimensions in Twitter: Time, Individualism and Power


日本が外れ値として登場していて、興味深かったので紹介する。ちなみに上記通説は引用回数の多い下記研究(Kwak et al., 2010)による。ツイッターのデータが2009年なので少々古い。ただ6月の人工知能学会でIBMの方が2012年のデータをクロールして分析したところ、相互フォローの率、ネットワークの平均距離はほとんど変わっていないと語っていた(公開資料はなさそう)。でもIBMの研究では文化差には注目してはいないはずだ。というのも彼らの関心はHPC(High Performance Computing)と呼ばれるところにあるから。
What is Twitter, a Social Network or a News Media?


Ruth Garcia-GavilanesらバルセロナのYahoo! Researchの3人によるこの文化差研究は、2011年のツイートデータを、1. 生活のペース(Pace Of Life)、2. 個人主義と集団主義、3. 権力的不平等に対する認識(Power Distance)との関係で見てみようというもの。3つの項目についてはすでに数値化されたものがあるから、それとツイートデータから求められる数値の相関関係を30の国を対象に見てみるという手法だ。ちなみにデータは55,000のシードアカウントからはじめて、芋づる式に10週間にわたって30カ国、234万のツイートデータを収集している。


1つめの生活のペース(Pace Of Life)は、どれだけその国の生活のペースが速いかというもの。もう少し詳しく言うと、単線的な時間が流れている国か、複数の時間が同時に流れている国かというものでもある。既存研究から、米国、スイス、ドイツ、そして日本は生活のペースは速く、単線的な時間が流れている国とされている。仮説としては、こういった忙しい国では(フランス、イタリア、ギリシャ、メキシコなどの国とは異なり時間に対して柔軟ではないので)、決まった時間にツイートをするというものだ。


そして結果を示したのが下のグラフ。直線をみると右肩下がりになっていて、相関係数も-0.62と高く有意な結果が見られた。
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さて日本だが、右上の外れ値にある。すなわち、生活のペースは3番目に速いが、平日を5つの時間帯に分けて、どれだけ時間的にランダムに(逆に言えば定常的に)ツイートするかを見たところ、インドネシアについで2番めにランダムということが判明した。ちなみにドイツは日本と同じく忙しい国とされるが、ものすごく時間的にランダムな投稿が少ない。なんでもこの国はツイートへのメンション数が主要10言語の中で最小で、ブログへのコメントが非常に少ないという研究もあるそうな。


2つめの個人主義と集団主義についての結果が下のグラフ。仮説としては、集団主義の方が@(mention)を使って誰かと会話しているというもの(後述するが@の入っているツイートが会話的なものかについては筆者らも限界として認めている)。結果が下のグラフで、直線は右肩下がり。相関係数も-0.55で有意とされた。日本については個人主義指数が45ほどだが@(mention)を使ったやりとりの指数は大きい。こちらもインドネシア、ベネズエラ、メキシコに次ぐ指数の大きさだ。そしてここでもドイツがぶっちぎりの少なさ。
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最後の、権力的不平等に対する認識(Power Distance)のグラフを見てみよう。縦軸はフォロー数(入次数)の不均衡で、横軸はPower Distanceの指標となっているが、こんどは右肩上がりの直線で、相関係数は0.62でやはり有意となっている。
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見にくいが、日本は真ん中やや左の下の方にある。韓国の左下のスペインのそのまた左である。Power Distanceの指標は55ほどで、それほどフォロー数の不均衡はないようだ。なおこのグラフは「誰が誰をフォローしているか」のデータが縦軸である。彼らは「誰が誰を推薦しているか」「誰が誰をフォローしはじめるか」のデータでも分析しているが、この3つで相関係数が最も高いのは最初のものだ。ただし縦軸の数値の具体的計算方法はわからない。


ここでも特別な国として登場するのがインドネシアで、フォローが集まる人とそうでない人の差が大きいわけだが、これについては、インドネシアではブログトレンド(これが何を意味するのか不明)の27%が大衆文化や有名人に関するものという2011年の研究があるそうだ。この注目される巨大市場では有名タレントを起用したCMが多いのかもしれない。


以上を総合すると、日本人は、忙しいとされるにもかかわらず決まった時間にツイートするわけではなく、個人主義指標が中庸である割に他人とコミュニケーションをとるツイートが多く、Power Distance指標は中庸でそのような国の中ではフォロー数の不均衡はあまり起きていないという結果となった。


1つ目について、勝手に解釈してしまうと、決まった時間にツイートするわけではないのは、携帯端末が手許にあって何か刺激があれば反射的にツイートするからか。でも韓国が案外規則的に投稿しているのでやっぱり端末環境よりも文化差なのかと思ったりもする。


2つ目の結果は、少々調査手法に問題があり鵜呑みにできない。というのも@(mention)が現れるツイートには、かなりの数via@(サイト名)といったニュース記事をリツイートというものが含まれると考えられるからだ。それはコミュニケーション的な利用よりもニュースメディア的な利用と直結する。このあたりは現在企画している調査の結果から何か新しいことが言えるかもしれない。


3つ目の結果は少し意外。というのも日本もかなり有名人をフォローする人がかなり多いと考えていたからだ。実態はむしろ横軸の指数に比べて不均衡は小さいので、Ruth Garcia-Gavilanesらの言葉を借りれば「あまり有名でない人を支援する」傾向があるのかもしれない。あるいはツイート捕捉時期が2011年3月から5月なので、震災直後ということで普通の人のフォローが顕著だった時期と言えるのかもしれない。なお住んだことのあるアメリカで不均衡はややあり、一方フランスで権力的不平等に対する認識が比較的高い割にフォロー数の不均衡は小さいという点は実感と合う。


記述が雑ではありますがご容赦を。最後の部分についてはコメントがあれば欲しいところ。みなさん妄想してみてください。

Pew Research "Teens, Social Media, and Privacy"

今週Pew Internet and American Life Projectから"Teens, Social Media, and Privacy"というレポートが出された。


日本語でも、個人情報の開示が進んでいて、FBユーザーの60%は公開範囲を友達だけにしているが、平均友人数が425人であることから、あまり良く知らない人にまで個人情報を開示しているという趣旨のことが書かれたメディア・パブのこの記事。どうでもよい投稿が増えすぎたし、親に監視されているからFBがいやになったというティーンが多いというような記述があるこの記事などが目に入ってきた。


英語では、「ティーンはツイッターに移住中」というタイトルがついたこの記事が目に入り、やはり親が使っているFBはいやで、だからTwitter, Instagram, Tumblrに移ったということが取り上げられていた。


僕がこのレポートを最初に読んだ感想は公開癖強まり、使い方もうまくなっているという印象というものだったが、たまたまdanah boydがここで似た感想を綴っていたので紹介しておく。


彼女が記事の2点目でとり上げているのが、ティーンズが情報公開などの設定をかなり上手に使っているようだという点。友人削除の経験があるのは74%、以前の投稿を消したことがあるのが59%、ある人をブロックしたことがあるのが58%、コメント削除経験が53%、つけられたタグを削除したことがあるのが45%という具合である。また冗談やあいまいな表現を用いて、本当のメッセージをなんとなく隠すことがハイティーンでローティーンよりも高くなっている点に合点がいったと彼女は書いている。


実はboydが挙げている1点目も面白い。これは日本ではあまり知られていないように思うが、TwitterはアメリカではAfrican-Americanの使用率が高い。ティーンに限らず、これはそうで、僕はそのデータを見るたびに「なぜだろう」と思っていた。これに関するいくつかのデータがここには書かれていて、ソーシャルメディア全般で少なくとも1つでは実名を使うという割合が白人では95%なのだが、African-Americanでは77%であること。またAfrican-Americanは(相手を撹乱するための、かな)偽情報を投稿する割合が39%に対して、白人では21%。さらにAfrican-Americanの48%はFBで有名人やアスリートや歌手をフォローしているが、白人では25%というあたりだ。


彼女はAfrican-Americanはより公共的な生活に身をおくことを好むのでは、彼らに影響が及ぶ権力に対する不信感があるのでは、大衆文化に対する好み・評価があるのではと少しだけ推察も書いているが、ともかく人種とソーシャルメディア利用は関連し、ティーンと一括りにできないことを強調している。


このあたりは昨年、サンディエゴで日本でのファイスブック受容を話すために、ゼミの卒業生(ティーンじゃないけど)にとった簡単なアンケートで、ブームに乗って使ってはみたけど/使ってはいるけどぼちぼち息苦しくなってきた/飽きてきたという人がそれなりにいるという印象をもったのと似ている。「意識高い系」という言葉を知ったのはその時で、人種じゃないけど、ある属性はFBを好み、ある属性は好まないということを感じた。


余談になるが、うちの12歳になる息子はアメリカからの帰国に際してFacebookアカウントを取得した。これはまさに今回の調査を裏付ける話で、親が最も使っているソーシャルメディアがフェースブックだからである。まだ子供同士で国を超えて頻繁に連絡をとるわけではないから、そういうことになる。


電子メールアドレスだけでも良いのではと考えたが、友人の中には電子メールアドレスを頻繁に変える(変わる)人もおり、また親でもうFBのメッセージが中心という人もいたのでFBのアカウント開設を要請された経緯がある。息子の開設したアカウントと紐付いた電子メールアドレスにメールが届くと私のメールアドレスにそれが転送される。つまり友人申請やメッセージなど重要な通知があると私経由で息子にお知らせが行く仕組みになっている。今、彼にはSNSを利用する習慣はない。だがおそらく日本の中学校に通うようになり、本当のティーンになったら、きっと親に見られないようなソーシャルメディアを使うようになるのだろう。