『つながりっぱなしの日常を生きる』

草思社の三田真美さんより恵贈の1冊。

原題は"It's complicated" (2014). 「ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの」との日本語副題にあるように、ティーンのソーシャルメディア利用についての研究結果で、それは大人たちに見えているようには、あるいはマスコミで描かれるほどにも、単純じゃないのよということ。


著者はdanah boyd. Social Network Sites: Definition, History, and Scholarship (2007)やTweet, tweet, retweet: Conversational aspects of retweeting on twitter (2010)といった論文がある。若者研究の第一人者と呼ばれることが多いが、実は好き嫌いがけっこう分かれる人でもあるようだ。本書でも定性調査手法を使っており、どの程度の人がそういう傾向だというような数字が166人もインタビューしたくせにまったく書かれておらず、前半は極端な例のオモシロ小話と読めることは読めてしまう。

若者を擁護する彼女の論の中心は、大きく言えば、ソーシャルメディアという技術は若者のコミュニケーション様式に本質的変化をもたらしていないということである。つまり技術決定論に対する痛烈な批判で、少し挙例すると下のような話。


いわく、(1)そもそもフェイスブックのポリシーにしたがって実名登録なんてしていないことも多い(なんで実名で登録させんだよ、と抗っていいなりになっているわけではない)。(2)若者はそれなりにプライバシー設定を使い分けて誰に対して発信する情報かを意識している(よって万人に見えるものは他愛のないものと映る)。(3)ティーンがソーシャルメディアを利用するのは彼らが忙しくなったからと米社会のセキリティリスクが高まったからで、かつて費やしていた学校帰りの道草でのだべりをソーシャルメディアで行っているだけ(昔からあったものがネットに移っただけ)。


いわく、(4)「ドラマ」と呼ばれるネット上のパフォーマンスもまったくの愚行ではなく、それなりの意図がある(メッセージを持つものである。時にはいじめ)。(5)エスター・ハーギッタイの作ったデジタルナイーブ(デジタルネイティブのもじり)という用語のとおり、ソーシャルメディアやネットそのものをうまく使えていない子もかなりいる(新しいもの好きとそうでない人、社交へたと社交上手はいつの時代もいる)、など。


ただ(3)に関する彼女の立論には私は不満である。たしかにティーンのソーシャルメディア利用はこれまでの「道草でのだべり」の代替なんだろうが、それはティーンが孤独でいられた時間を奪っている。友人との会話も大事。でも一人になって内省し、自己と対話し、哲学することもティーンにとっては大事である。


だとすれば、たしかに若者のコミュニケーション様式にはソーシャルメディアは大きな変化をもたらしていないけもしれないけれど、若者の精神的成長には大きな変化をもたらしているといえるのではないか。時空を超えてあまりに手軽に繋がれる技術の弊害だ。もしその利用に手間がかかるのであれば、彼らはそこまでそれを利用せず、一人でいる時間を確保できたのではないか。


ゆえにティーンを擁護するのではなく、根っこはティーンが忙しくなった(大人たちが忙しくさせた)からと米社会のセキリティリスクが高まったから(そしてこちらもそうしたのは大人たち)にあるとはいえ、ソーシャルメディアにも問題はあって、「ティーンよ、一人でいる時間と友だちと一緒にいる時間をバランスよく過ごしなさい」という主張の方がまっとうだと思う。つまり前半は若者に擦り寄った単なるポジショントークとも読めてしまう。


この点に関しては、調査時期の中心が2010年までで、スマホへのフォーカスが少々甘い点とも関連しているのかもしれない。2010年までだとことティーンに限ると良家の子女以外はあまりまだスマホを持っていない。でもスマホになって、ソーシャルメディア利用時間はさらに増しているはず。つまり先程の孤独時間確保にはさらに大問題になっていると考えられる。


けれども後半、それも(5)については実に大きな問題とboydも捉え、まともな論になっているとの印象を持った。実は多くのティーンはデジタルナイーブに属するという指摘だ。さほどサンプルも大きくない私の経験則ではあるが、スマホのみでネット接続し、動画とソーシャルメディアメッセンジャーのアプリだけを利用している学生(このタイプの学生は「ネットでの協働」とか言ってもピンとこない)と、PCでのアクセスもそこそこあり、調べ物をしながら、自分の成果を時にはネットに公表し、フィードバックをもらいながら知識やスキルを上げる学生の間にはわずか3年ほどでも大きな開きが出る。後者の学生がスマホを利用してないのではなく、スマホでできることの限界やPCの方が創造的になれることをよく理解しているということだ。


つまり今起きつつあるメディア、デバイス、サービス利用にまつわる問題に、社会的にナイーブであることが大問題ということ。物理面でのデバイド(回線がある/回線がない)は少ないとしても、知らないうちに成果面でのデバイドは広がりつつある(可能性がある)ということである。この点についてはboydもとても危惧しており、私も非常に似た立場をとる。だけど、であるからこそ彼女の前半のティーン擁護論とのトーンの矛盾が指摘できるのだ。


そういう意味では帯の「デジタルネイティブなんて、幻想だ。」は的確で、本書は広く年長者がティーンのメディア利用に関して考える上での手引書になる。ネットはAIではなくIA。Artificial Intelligence(人工知能)ではなくIntelligence Amplifier(知性増幅器)。単にティーンの生態を知るにとどまらず、ソーシャルメディアを使う時間以外のネットの使い方についても子どもと関わる大人にはこの本を通じて考えて欲しい。そしてそれは大人であるあなた自身にとっても大問題であるように思う。