紙の新聞を再開して3月

新聞の定期購読をやめたのは、たぶん07年のどこかだったと思う。その後も週末のみ紙の新聞は購入して読んでいたし、大学図書館などで読むこともあった。それでも紙の新聞(毎日新聞)が毎日宅配されるというのはやはり違う。毎日新聞にしたのは、もっともページ数も広告も少ないから。ちなみに今日は「新聞を読む日」(4月6日)だそうだ。これも新聞で知ったのだが、消費税率アップのこの時期、各国の新聞の税率を紹介した特集記事が載っていた。


定期購読を再開した理由は2つある。1つは子どもが中学生となり、多くのことに目を向けて欲しいと思ったからである。自分の場合は小学生時代から紙の新聞が自宅にあり、それによって色々なことを知ったので、それゆえだ。ただし、まだ当の子どもに新聞閲覧の習慣は生まれていなくて、たまに読んでいる程度。


もう1つはネット上のノイズが増え、どうしてもネット好きの私としては、そういうものに費やす時間が多くなってしまい、それを反省し、伝統的なジャーナリズムとパッケージメディアに戻してみたというものだ。仕事を離れた妻が紙人間というのもある。以下徒然に。


新聞で取り上げられるテーマについては、自分で考える(ただしちょっとだけ)ことが多くなったと思う。アメリカ時代に比べるとそれでも少ないが、国際的な政治(経済)情報に触れる機会が増えたように感じている。当然ながら新聞には、事実記事以外にもオピニオン記事もある。毎日新聞はけっこうここで特色を出そうとしている印象を持っているが、それを読むとそれなりに考える。こういう意見記事中心のウェブサイトもあるのだろうが、この点については紙でゆったりした気持ちで読んでいるからという理由もあると思われる。


映画、美術展、博物館などの情報、また「ふーん、こんな話もあるんだ」という主として地方版に書かれた内容に出会う機会がうんと増えた。映画や美術展に関しては、ツイッターフィードリーダーなどでも情報を得ているが、実は映画や美術の鑑賞に関して私はどちらかと言えばマスに近い人間なので、新聞ぐらいの情報の方が心地よい。


アジェンダ・セッティングの力、論調の力はやはり大きいと感じる。やっぱり権威とか信頼性というものがネットメディアよりあるので、それとなく「そんなものかなぁ」と論調を信じてしまうことはある。ただ同時に半権威的な自分もいるので、たとえばNHK会長の発言やSTAP細胞論文ねつ造について、かなり熱心に毎日新聞が読者欄も含めて取り上げている様子を感じると、逆に反発を感じることはある。


自分の専門分野で起きていることについては新聞から得るものはほとんどなく、ネットメディアで事足りる。厳選したブログと英語中心のツイッターのフィルタリング、それとはてブ。知ったかぶりも必要な実務家じゃなくなったので量的にはこれで十分。論文書けば、学術誌にも目を通す。ただ、専門に関連する社会的な事象について少し深く考えるためには、たまに力を入れたブログを書くか、一般書への原稿を書くことが必要とも感じている。


逆にこれまで学生から教わるしかなかった(それもその機会は稀少)、はやりの芸能人やテレビ番組の名前だけは少し知るようになった。


紙の新聞を毎日読むようになって、当初の狙いどおりフェイスブックの利用時間や頻度は減った。それでも2日に1度は見ているけど。あとは、ブロゴスが減った。ブロゴスで人気のあるようなブログの水準が下がってきたなぁという印象をもつようになったのがここ4,5年で、実際フィードの登録数もどんどん減ってきたわけだが、新聞を読む時間が増えた分、かつては週に1,2度それでも閲覧していたブロゴスにはもう行かなくなった。


あとは、想像はついていたが、体験してみると新鮮だったのは、もう(よく目にしがちな)ネットメディアよりも新聞の方があるテーマについて取り上げる期間が長くなっているという現実。むかしは「テレビや新聞には時間やスペースに制約があるが、ネットでは長期にわたって特定テーマが取り上げられ議論される」なんて教えていたけど、まあもう人気メディアについてはネットの方がエフェメラルですね。


総じて今のところ、紙の新聞は再開してよかったと思っているが、1つにはこの1月から3月というのが一番拘束時間の少ない時期だということもあると思う。学期が始まると毎日届くものが読めなくなるような気もしている。


また4000円/月は高いなあとも思う。自分にあった商品パッケージと価格でいうと、月1500円での毎日の電子配信(紙と同じものがビューアーアプリで見られるもの)、それにオプションで、火・木・土・日の紙での宅配をつけて2500円という感じのもの。