『メディアの生成』 アメリカ・ラジオの動態史 

無線電信の実用化に成功したマルコーニは翌1896年にイギリスでマルコーニ無線会社を設立した。ラジオ無線産業化のはじまりである。

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史


このころから1919年ごろまでのラジオ無線は「放送」ではなかった。それは電話と同じような双方向のコミュニケーション・メディアで、しかもパーソナルな会話ではなく、電波が届く範囲内でチューニングできていた人びとがみなおしゃべりに加わることができた。水越は「それはちょうど、1980年代なかばまでのパソコン通信のように、マニアたちの好奇心と想像力によって成り立っていた」と書いている。


本書のメッセージのひとつは、終章に示された以下のものだろう。

ここで注目すべきなのは、ひとたびメディアのありようが定着してしまうと、メディアが生成過程においてはらんでいたさまざまな可能的様態と歴史社会的な契機が、驚くほど簡単に、人々の意識のなかから姿を消していく傾向があることである。たとえば、ほとんどの人々は、電話が「テレフォン・ヒルモンド」にみられるようなエンターテイメント・メディア、ニュース・メディアとしてはらんでいた可能性を、ラジオ無線が実用化されたさい、すでに忘れてしまっていた。第一次世界大戦以前には、そうしたビジョンはデービッド・サーノフの「ラジオ・ミュージック・ボックス」ぐらいしか見当たらない。AT&Tにおいても、あらかた失われていた。このために、「有料放送」を開始した後も、ラジオをマス・メディアとしてとらえることができずに、ずいぶん試行錯誤をくり返したのである。


にもかかわらず、ラジオはいかにして「放送」になったのか。それを水越は、「制度・政策」「産業・送り手」「生活文化・受け手」といった複合要因から分析していく。いくつかの要素を挙げてみる。


第1次世界大戦を通じて人びとの目に明らかになったのは国際社会とその裏にあるナショナリズムであった。そしてメディアが造成する擬似環境がこれに大きく影響していることから無線産業の国による管理を政府が望んだ。アメリカの持つ伝統からそれは国有企業とはならなかったものの、GEが海軍の介入によりアメリカン・マルコーニの株を買収すると同時に、RCA (Radio Corporation of America)が1919年10月に設立された。すぐに海軍がアメリカン・マルコーニの資産をRCAの名において吸収。


RCAの株主構成は、GE(25.8%)、ウェスティングハウス(20.6%)、AT&T(4.1%)、ユナイテッド・フルーツ(3.7%)、その他45.8%であった。GEとAT&Tはラジオ無線受信機の独占的製造権を獲得。またRCAにはラジオ無線受信機の独占的販売権を獲得し、GEから60%、ウェスティングハウスから40%の割合で買い上げた。AT&Tはラジオ無線送信機の製造、レンタル、販売独占権を獲得した。


送り手側のイノベーションは、放送局の設立だろう。これはウェスティングハウス社員であるフランク・コンラッドが1910年代初頭から週末にガレージからレコードや短いおしゃべりを流すようになっていたところがその端緒である。そして1920年にあるデパートが無線受信機の販促のためにピッツバーグのローカル紙に広告を出した。コンラッドの放送が聞けるのはうちが売っているラジオ受信機でですよ、と。


当時、受信機しか持たないマニアは、いずれ送信機も手に入れ、操作できるようになりたいと思っており、リスナーという言葉は、やや軽蔑的に使われていた。だがその広告を見たウェスティングハウス副社長のデービスが、ラジオ放送局を作り、定時放送を行ない、自社ラジオ受信機の販促のための広告を打ってからわずか2,3年でテクノロジーに対する驚きがなくなりはじめ、聞こえてくる音の中身に楽しみや喜びを感じるようになっていく。商務長官からコールレターを与えられ、ピッツバーグに開局したKDKAは最初のラジオ局とされている。1920年10月のことである。大衆を相手にしたKDKAは当初からビジネスとして考えられており、リスナーはむしろ尊重された。AMラジオ局数は1923年には556局を数えるようになった。


エンターテインメント性を持ったサービスが最終消費者の支持を得て、わずか数年で規模を急拡大するという点は、近年のSNSソーシャルゲームを彷彿とさせる。


当然、ハードウェアメーカーもここに参入する。GEとウェスティングハウスでシェアの1/3は占められていたが、1928年までに60社。35年の平均価格は25年の83ドルから55ドルまで下がっていた。世帯普及率は25年に10.1%、大恐慌の29年には34.6%、35年には67.2%である。デザインもむき出しのラジオからパッケージ化されたものとなり、ガレージからリビングへとその置かれる場所も移っていった。


では収益モデルはどうか。KDKAはラジオハードメーカーのウェスティングハウス傘下のものであったが、では同業態ではない企業が年々高騰する放送局運営費をどう捻出したかという問題である。私も驚いたのだが、広告、つまりコマーシャル放送が社会的に承認され、中心的になっていったのは1930年代前半以降とのことである。RCAの初期の総支配人であり、その放送事業部門子会社として1926年に設立されたNBC(National Broadcasting Company)の初代会長となったデービッド・サーノフと時の大統領フーバーも、広告モデルを嫌い寄付モデルを望んだ。フーバーは放送としてのラジオはパブリック・インタレスト(公衆の利益)に資するべきという信念を持っており、これが1927年の無線法で明文化された。


だが、電波ゆえ聴取者を特定できないラジオは、聴取者が直接放送局に対価を支払うというモデルの採用が難しく、またラジオはパブリック・インタレストという考えが広まる以前は寄付は集まりづらく、また明文化後は大恐慌に陥ったため、寄付は現実的なそれとはならなかった。


『ラジオ・ブロードキャスト』誌が主宰した「放送に、誰が、いかにして払うべきか」というテーマの500ドルの懸賞論文で優勝したのは、一本の真空管あたり2ドル、鉱石ラジオ1台あたり50セントの受信機税を中央組織に納め、それで全国の放送事業を運営するというものだった。この方式はイギリスのBBCで1922年以来で採用されたが、アメリカでは採用されなかった。大恐慌下で製品を売るためのラジオ広告というものがある業種では非常に有効であることが明らかになると、ラジオ広告は恐慌を吸収して拡大していった。1931年には全放送時間の37.5%がスポンサー提供番組で、残りの62.5%が自主放送番組であったが、やがてこの比率は逆転していく。


収益モデルについては、広告モデルが定着するまでに10年ほどがかかっている。つまりサービスそのものの定着よりも時間を要した。放送サービスの需要が増し、設備投資額が増すことで現実的な解に落ち着くというあたりも、ネットサービス、特にUGMサイトのケースと似ている。ただしネットの場合個人特定が可能なため、個人課金という手段も得ているわけだが。