"Dark Social"という「切実な文脈」

先日、フランス人の友人の多い日本人の友人Aから、Facebookで気の利いた(あるいは共感を呼ぶ)投稿を彼がするとフランス人はFBのメッセージかメールで連絡してくるという話を聞いた。明らかに日本人の方がLikeどまり。コメントも少ないし私信で連絡してくることが少ない、と。


それを聞いて、2回に分けて2年半フランスに住んだことのある僕の思い浮かべた仮説は、Likeボタンだと言いたいことがあるフランス人には軽すぎるというか、圧縮されすぎてて意味不明だろ、というものだった。


そして、その時に連想づけられたのが、ここカルフォルニアに住んで最初に戸惑った会話の軽さだった。よくまあ、当たり障りのないことを次から次へとしゃべるよなという感じと、こちらが戸惑いながら発する同種の内容にすこぶる簡単に「それは良いね」と相手が相槌を打つことだった。つまり少なくともカリフォルニアとLikeボタンは親和性が高い、と。


そんなやり取りがあった上で、"Dark Social"というタイトルの記事に出会った。"Dark Social"というのは、emailやchatなど、きょうび話題になっているFacebookTwitterなどのソーシャルメディアとは異なる、見えにくいSocialのツールのこと。あるいはリファラーが捕捉しにくいツールないしは経路と言えば良いだろう。で、そういう手段を経由してWeb上のあるコンテンツに訪れた人を無視して良いの? というのがここで紹介した記事の問いかけである。記事中では69%がDark Socialからの来訪で、Facebookからは20%という数字が紹介されている。


件のやりとりがあった後だから、僕のこの数字からの第一印象はアメリカ「でも」そんなにDark Socialが多いのだ、という比較文化論的なものだった。


もちろんメールやチャットで友人に記事を紹介するケースが多いという話と、カリフォルニア的会話とLikeボタンと親和性があるという話は別である。さらに友人Aに送られてくるフランス人からのメールに友人Aが膝を打つようなリンクが紹介されているとは限らない。でもソーシャルメディア経由でニュースサイトを訪れる人がアメリカで増えているという話は事実なので、僕にはたいそうこの数字が意外に思われた。こちらは2012年版のより網羅的内容


そこで次に気になるのが日本におけるこのDark Social比率。僕自身は現在、アメリカにひっそり暮らして、他の人と一緒に仕事をするという機会がほとんどないので、メールでその人にとって参考になるだろうWebページを教えてあげるというような行動をとることはめっきり減っている。でも、事情のわかった友人や知り合いからの一撃が、うーんとアイディアの発展には利くということについては十二分にわかっている。もちろんこれは誰もがわかっていることだろう。ただ友人Aの指摘が事実だとすれば、日本人、そこのところ大丈夫? という気がしないでもない。もちろん可能性としては、フランスについてはFBの浸透が日本より4年ほど早いので、単なるユーザーの成熟ということもあるだろう。


ともあれ、僕がちょっと書きたくなったのは、Dark Socialという切り口はとても重要で、そのような「切実な文脈」を伴う経路での一手間かけるコミュニケーションというものをユーザーは意識したほうが良いんじゃないの、ということ。それは今はまだ誰もが覚えていることだけど、ソーシャル時代を経るにつれ、ひょっとすると忘れられていく行動かもしれないので。