デジタルネイティブ世代間のデジタル・デバイド仮説

木村忠正が2012年に出した『デジタルネイティブの時代』という本がある。

この本を読んだのは今年の9月だったが、これは3年ぶりに接した日本の大学生が全般的に知的好奇心に乏しく不満だったのと、秋から始めた「ネットワーク・コミュニケーション論」の授業にあたっての予備知識を得るためだった。


この中で、木村はデジタルネイティブを4世代に分けていた。最も最近生まれた第4世代は1991年以降の生まれとされる。ちなみに第1世代は1982年までの生まれである。私が今接している現役大学生は20才か21才なので、1992年か1993年生まれである。つまり第4世代。中学生からパケット定額制でSNSに馴染み(どちらかというと狭い友達だけのコミュニカティブな世界)、2010年の高校時代から一部がスマホも使い始めた。


これは木村の本には書かれていない私の見解だが、時代区分として大事なのはスマホ端末の普及(iPhoneの日本における発売は2008年7月)よりも、アプリの豊富さとその普及である。すると、開設は2008年7月のAppStore、2008年10月のAndroid Marketだが、スマホによるネット接続が現在の形に固まっていくのはアプリの登録本数が10万を超え、ダウンロード総数が50億を超える2010年末以降だろう。


はい、ここからはデータに基づいたものではない私の印象による仮説。


スマホでのネット接続がアプリの豊富さとUIで手軽になった彼らのメインのネット接続端末はスマホになっていく。大学生になってもネット接続端末はスマホオンリーという層がかなりいるのが彼らである。文章を書いたりすることが多いはずなのにパソコンを持たない学生もそれなりにいる模様。パソコンは最低限、大学のものを使えば良いというわけである。商品情報はそれなりに調べている感じだが(ブランド名や型番で)、学問やリサーチ、消費以外の自分の興味ある分野を調べるということは、どれだけやっているのかなぁ、という感じ。今年新卒で入った新入社員の検索リテラシーが低いという話も聞いたことあるし。


スマホでのネット接続は汎用ブラウザでリンクをたどってサーフィンという感じではない。しかもダウンロードはわんさかするけど、アプリはせいぜい10〜15の利用で、ほとんど受信である(まあ、大きく言えばこれはずっとそうなんだが)。ソーシャルメディアと動画とまとめサイトとゲームというあたりが定番となり、あとはお好みのアプリを少々。いわばチャンネル数のちょっと多いテレビである。たまたま外部サイトのリンクがアプリの中にあっても、UIイマイチで馴染みのない汎用ブラウザがスマホで立ち上がれば、そのサイトのコンテンツはそんなに読まない。


発信に関しては、短いものがほとんどで、創作物をアップするという習慣に乏しい。ブログ書いている者は著しく少ない。マイクロブログはそこそこいるけど。ひどいのになると(うちの学生にはいないよ)、アーキテクチャリテラシーがないから、「なぜ知らない奴が俺/わたしのツイートに色々言ってくるんだ!」と自分が書いたおバカツイートが反響を呼び、自分のタイムラインがメンションで埋まる理由すらわからない。


さらに、ここがショックだったのだが(これはうちの学生にあてはまる)、投稿は他の人と共有するというよりも、身内に自己アピールないしは単なる連絡という感じで、多くの人あるいは誰かにとって有用な情報を公開することで他の誰かが利用できる、という「シェアの思想」は知らなかったりする(10年後のクチコミサイトはどうなるのだろうか?)。「シェア」という言葉は氾濫しているが、その過剰なシェアゆえ、その意味するところが変わったという感じだ。


人々が共有サイトに投稿するのはポイントが貯まり、アフィリエイトで儲かるからだと思っている(経済学者にCGMの話をすると「なぜ彼らは投稿するのですか?」と聞かれることがしばしばあるが、まあそういう世界になってきたようだ)。だから2次創作なんてわかりやしない。そういう受信型の人が「ネット好きです」と言ってうちのゼミにくるようになった(「評価経済」の話とは逆。もちろん一部の層はクリエイティビティを発揮してうまくネットを使っているわけだからタイトルにあったように「デバイド?」、ということが出てくるわけ)。


というように何となく感じていた第4世代への物足りなさだったが、これが先月末に行われた、ゼミの1期から3期までのOBG会で第2世代の彼らと会ううことで、大きなショック(だから本ブロブ投稿)へと変わる。普段見ていた第4世代の属性が、この第2世代とのコントラストによって非常に鮮明になったからだ。わずか6,7年の違いでこうも違うのかというショックであるが、木村の世代論の説得力を感じた場でもあった。


第2世代は大学時代にミクシィ開始(ユーザー数の伸びということでは2005年半ばから)。この世代は高校時代も含め学生時代は基本ガラケーである。高校時代はパケット代を気にしながらの利用。スマホも2009年に購入していた層はいるが、まだアプリは少なく汎用ブラウザでの閲覧。サーフィンするなら画面の広いPCの方が良いよねということで、ウェブは基本的にPCで接続していた。たしかにmixiゲームもPCだったなぁ。


ここからはまた個人的なフレーバーを。


第2世代については、うちのゼミに来る学生は2タイプいて、1つはメディアとしてのウェブに興味があるタイプ。ウェブにまつわる思想研究をする学生もいた。もう1つは、もともと興味あることがあり、それをウェブで調べるようになり、どんどん知識が増え、仲間も増えてはまっていったというタイプの学生である。だから私も彼らから新しいウェブサービスを教わったこともあった。いずれにしても自ら能動的にネットに関わっていたのが彼らだ。仲間内での会話はmixi日記でのレスで行われ、ブログとの書き分けも行われていた。つまりネットにアップするということは公共空間への役立つ投稿であるべきだし、他の人が参照したり再利用するのだからという意識がそれなりにあった。ニコ動&ピクシブを盛り上げていった初期ユーザー層でもある。


こう考えてくると、むしろ第4世代が運の悪い世代と思えてきた。スマホは便利なものだし、親も使っているし、友だちも使っている。親もそれでのネット接続に気をつけろとは言わない。でもスマホという狭い画面の中でのアプリを使ってのネット接続は、PCといういざという時にクリエイティブな動きができる、大きな画面で汎用ブラウザを使って行なうネット接続は、異質なものであるという意識は持ったほうが良いのではないか。これがこのポストでの私の主張。もちろん仮説です。ひょっとするとデジタル・デバイドを生む、という。この主張は外部から見ると当たり前なのだが、第4世代を中心とする気づかない人は気づいていないというところが怖いわけ。


第4世代の学生諸君に対しては、「あなた達は6,7年前の学生に比べて知的好奇心が乏しい」と言う印象論とともに、「少なくともPCでのネット接続がすぐに出来る環境を整えておくことは重要」、「PCでのネット接続という習慣をなくさないように」と言い続けることが必須というように思えてきた。私の持論が仮説でしかないとしても。


もちろん、たかだか10数サンプルの事例を比べて何を言っているんだよ、という話はあるだろう。つまりたまたまゼミの1〜3期生に問題意識の高い人たちが集まったということ。またかつてはウェブサービスという打ち出し方をしていたのに、今年についてはゼミをネットマーケと広告という打ち出し方をしているというせいもあるだろう(来年は戻してみた)。


あるいはOBGが単に社会人になって業務でPCを使っているだけ、つまり今の第4世代も6,7年したら同じになるということなのかもしれない。さらに言えば、業務で使う端末に無関係で単に社会人と学生の違いという話だけかもしれない。だが、そういうことがあったとしても、この私の直感はとても深刻な問題を生む可能性がある。ネットの大衆化は不可逆な流れだとしても、うちのゼミの学生には、スマホ+アプリのネガティブ・サイドの可能性については意識的でいてもらいたいと思う。


今、情報過多の問題をリサーチを進めているが、これまでこの概念は主として経営学分野で意思決定の質との関係で論じられてきた。ところが今のソーシャルメディアを中心とする情報過多(社会的相互作用過多)は、意思決定と連動したものではない。つまり意思決定の質の低下を感じて情報量をコントロールするという契機が生まれにくい。だから、われわれの他の活動時間をどんどん奪っていく可能性が高い。それもスマホ+アプリで。


その「スマホこわいかも」という点に「孤独でいる時間を維持せよ」という観点から警鐘を鳴らしたのが、『Alone, Together』の著者であり、TEDでは『Alone, Connected』というタイトルでしゃべったSherry Turkleである。孤独の話については、私はTurkleと非常に似た考えの持ち主である。今回はこれ以上触れないが、関心を持った人は上のリンク先ビデオを見てみて欲しい。


ということで(とやや論理が飛躍するわけだが)、冬休みはラジオ関連書籍2連発で過ごそうと考えている。小説が読みたくてたまらないので、1冊はいとうせいこうの『想像ラジオ』。『ノーライフキング』以来だぞ。そしてもう1冊は、20年ぶりに読みなおすことになるのだが、アメリカにおいてラジオが双方向無線から一方向のマスメディアへと変容・発展していった歴史(すなわち大衆化とビジネス化の歴史)を綴った『メディアの生成』である。このポストで綴ったこととのアナロジーがそこからは見えてくるかもしれないし、現在準備中の書物に水越さんの政治経済的な力学の分析が参考になるかもしれないので。


では、みなさん、良いお年を。
今年は10ポストだったので来年は8を目指します。


想像ラジオ

想像ラジオ

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史

メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史


[追記]
ゼミ学生とこの件について改めて話してみた。


曰くスマホ+アプリでも「受信」というわけではなく、発信もかなりするようである。ただし会話や連絡のための手間をかけないコンテンツであると。『フリーカルチャーを作るためのガイドブック』をゼミで読んだので、よくわかっているのだが、やはり創作物のアップロードという習慣はほとんどない。


ただしスマホの汎用ブラウザでもそれなりにネットサーフィンはするらしい。でも、それは時間やコンテンツの消費であり、知的な活動ではないというところはそのようだ。


13名の学生のうち、全員がスマホは所有しており、自宅にPCも所有していた。時間ベースでスマホでのネット接続がPCからのそれを上回っていると(直感で)答えた者が9名。逆に4人がPCでの接続時間の方が多いわけである。学業成績で言うと、後者4人の方が良さそうだが、私は自分の担当していない科目についてはわからない。


むしろゼミでの活動を通じて言えるのは、この4人が確実に興味あるものを持っていることを私が知っていることである。たとえば彼らは相対的に研究テーマの抽象度が高く、それを論じるための調査方法まで含めて検討する。対照的な学生は、具体的な現象に興味があるからそのことそのものを調べるというパターンである。


ま、学生にも話したけど、私は何も世代だけで説明できるとは思っていない。ただ、その手の情報消費活動だけにインターネットを使うのはあまりに損をしていないかということは言っておきたい。