昨年の3月11日

14時46分には大学の6号館6階にいた。揺れを感じたのは、教授会が終わり、6階のラウンジで3,4人の同僚と話をしていた時だった。6階はそれなりに揺れたけど、揺れの時間が長いことの方が気になった。建物から出るように避難勧告が出て、まだ教授会が終わっていなかった他学部の教員や大学に来ていた学生などがどんどんと中庭に集まってきた。そしてワンセグでテレビを見ている人が東北の海岸がとてつもない津波に襲われていることに気づき始めた。


僕は当日夜に予定されていたH先生の退官記念飲み会の幹事をやっていた。地震発生の小一時間後に学部長と相談し、とりあえず延期とし、またH先生にも了承をもらい、数名の教員には口頭で直接伝え、16時頃その旨を学部教員のメーリングリストに流した。メールシステムはGメールに移行済みだったので、連絡が滞ることはなく、すぐに数名の教員から返事が来たことを覚えている。また妻からのメールも来ており無事を確認した。


JRはすでに止まっていたので、次は誰を自分の車に乗せて帰るかを考えた。実は地震発生直後の中庭で、一番に乗せて帰る約束をしていたのはKさんだったが、16時過ぎに研究室にいってもおらず、最終的にはいずれも吉祥寺方面のAさん、Iさん、そして退官するHさんの3人を乗せて帰ることにした。17時5分前ほどに、宴会会場にHさんからもらったテレホンカードで電話を架けたが、誰もでず、17時頃に車で学校を出た(翌日宴会会場と電話はつながり、キャンセル料は発生しなかった)。


普段通り、東八道路はまったく混雑していなかったが、新川で吉祥寺通りを左折するとかなり混雑しはじめて、井の頭公園あたりでほとんど動かなくなった。という理由で3人の教員を駅から500メートルほど南で降ろした。1人はそこから徒歩。2人は新宿方面のバスに吉祥寺から乗り、荻窪まで。件のHさんはさらにそこからバスで新宿に出て、最後は九段まで歩いて帰ったとのこと。70歳なのに。


3人を降ろした後、吉祥寺通りを南に下ったらこちらは順調。ただし環八は車が多くて渋滞気味で、すぐに動かなくなった。仕方がないので、千歳船橋あたりから裏道を通ることにしたが、信号が麻痺気味で、無秩序状態で、大通りに出る交差点はほぼ渋滞。ほとんど動かない感じになったいた。それでも農大前を通り、用賀中町通りを通って、なんとか19時15分に、こどもを預けてあったキッズペースキャンプに到着。


聞けば、息子は学校からキッズペースキャンプに向かう途中で地震にあったそうだ。電柱がすごい揺れていて、電線が伸びたり縮んだりしながらパシパシ音を発していて、地面もスゴイ揺れたので自身も立っているのが難しかったそうだ。それでも、キッズベースから英語教室に普段通り歩いて行き、授業を受けて、17時過ぎにキッズベースにやはり歩いて戻ったのだそうだ。


電車や地下鉄が止まっていたので、妻の帰宅時間は予想がつかない。ということで、さて晩ご飯を2人で食べようということになり、駅まで歩いていった。東秀は臨時休業だったが、マクドナルドはやっていた。我々はCoco壱番館に入り、息子は手作りロースかつカレー、私はメンチカツカレーを食べた。食べ終わると妻のためにレトルトの野菜カレーを買い、駅を覗いてから車に戻って帰宅した。


室内は少々倒れたものがある程度で、また本棚から落ちた本も10冊程度を数えるほどだった。ガスが止まっていたが、元栓を、ボタンを押すような形で開けると、ガスも復旧し、風呂にも入れた。電気は普通。息子はさすがに疲れたようで、帰宅後1時間ほどの21時30分頃には寝ていたように思う。


妻が帰宅したのは0時頃。19時頃に電車には見切りをつけて汐留を出発。麻布十番、六本木、渋谷を経由して三軒茶屋まで来たのが23時過ぎ。そこで田園都市線が復旧したので、電車で帰ってきたというわけである。


その日は、津波の映像をほとんど見ることなく床につく。それからの1週間、その映像を見すぎて気持ち悪くなることは、まだ知らなかった。