トケコミ20周年シンポジウムを終えて

12月12日のコミュニケーション学部開設20周年記念シンポジウムの備忘録。

客観世界は存在しない。主観世界は交流し、影響し合う。(ドミニク・チェン)

個人が作りソーシャルメディアにアップロードされた情報やプレイリストが多くの人に見聞きされ利用される。多くの人に向けて発信されたニュースが個人の解釈を伴って自分のソーシャルメディアに流れてくる。つまり向きの異なるふたつの流れがウェブでは交差している。(藤村厚夫)

ことばは出来ない方が良いこともある。ことばができてしまうと、こちらの希望に対してNOが宣告されてしまう。ことばができなくても、僕がカメラとともに相手に近づいていけばNOとは言われない。(荻野NAO之)

不正確な部分は容赦してもらうとして、こんなことばがエッセンスとなったシンポジウムであった。つまりは、コミュニケーションはつねに主観によって(ある程度の)ハイコンテキストで展開されているというわけだ。

その晩に届いた西垣通さんからのメールがまたこれを発展させる内容で、本人は「まあ、当たり前のことですが」と添えてはいるが、素晴らしい。私なりに少し編集して書くと、

それに対してコンピュータはコンテキストフリーを目指した論理機械であった。とはいえそれが用いるアルゴリズムによって、逆に「わかりあえる少数の人々のハイコンテキスト・コミュニケーション」がネットでは生まれつつあるという面もある。したがって、大切なのは「両者の緊張関係を意識しつつ、ハイとローをむすぶメタな立場でのコミュニケーションのあり方を考えること」ではないでしょうか。(西垣通

人間=機械複合系ということであるが、私も次の20年で、学生に伝え、少しは貢献していきたい部分である。 

 

100回の同一事件と100個の同種事件の弁別不可能性

1つの事件を100回聞くのと、同種の異なる事件を100個聞くことの区別が人間はそもそもできない(まだできるようになっていない)のではないか 。

 これが明治大学で開催された社会情報学会のシンポジウムでの認知科学者 鈴木宏昭氏の発言で最も記憶に残ったものだった。

シンポジウム企画 | 2015年 社会情報学会(SSI)学会大会

 

「人間とは記号や表象の操作をする存在ではもともとなくて、自分の身体をうまく動かすことが人間にとっての知性であった」という言葉からはじまった彼の講演は、私たちはすべてのシーンをスキャンしているのではないというChange Blindness(徐々に変化した場合に下図の左右の違いに気づかない)、取り出しやすい記憶を優先的に使って判断してしまう利用可能性ヒューリスティックの知見を紹介しながら次のように結論づけられた。

 

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記号や表象に対して、メディアがこうも繰り返し取り上げて、また普通の人が(それも自分に嗜好が近い人が)ソーシャルメディアで発信する情報にも繰り返し触れているとすれば、私たちはまともな判断ができないのではないか。

 

これはもちろん仮説ではあるが、たしかにネットでの情報量が爆発的に増えたのはここ10年以内、テレビだってたかだか60年である。そこには教育効果もさほどないはずであるというのが鈴木の見立てであった。

 

ちょうど先般、初稿を書き上げたツイッターに関する本で、「否定的な感情が込められたツイートは「気持ちを吐き出して」カタルシスを得るために「読み手を特に想定しない」で投稿されることも多い」と実証データに基づいた記述として書いた。コストが低すぎるコミュニケーションやコストが低すぎるコピー行為はなるほど人間の認知の側面からもデメリットを語れるのかもしれない。私は意志の力とのバランスや意味的なノイズとの関係で考えていたのだが。

 

近頃は「コストのかかるユーザーインターフェイス」というのが一つのキーワード。ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』も読み始めているが、その本の帯には「メディアは虚報にまみれている。政治は「頭より心」に訴えかける。真実より真実っぽさ、理性より感情が優る「ファストライフ」から抜けだそう!」とある。

『デジタルの際』鼎談

1つの章を担当した『デジタルの際』という本が昨年末に出版された。「集合性」⇔「個別性」、「情報」⇔「物質」という2軸で情報社会の様相に迫る企画である。2軸で作られた4象限が4部となり、各2章合計8章という構成。編集担当は河島茂生さん。

デジタルの際―情報と物質が交わる現在地点

デジタルの際―情報と物質が交わる現在地点

私の担当章(第1章)のタイトルは「ネットにおける集合性変容の予兆と資本主義」で、副題は「ユーザー生成型メディアの来歴と未来」だったのだが、この章を題材に学内イベントとして西垣通さんと柴内康文さんと鼎談する機会を得た。司会は川浦康至さん。私以外はみなすごい方です。


章の前半では、ユーザー生成型メディア=UGMのビジネスの一部に情報から物質という流れがあること。また後半では、UGMの投稿物に集合性から個別性という流れがあることを書いたのだが、当日は聴衆が学生ということもあり、後者が話の焦点となった。が、柴内さんからも西垣さんからも、私の内面に潜む前半と後半の二面性、ないしはその接面を指摘されたのでそのことをここに記しておこう。


柴内さんは「この章はお薦め。佐々木さんの二面性がとてもよく表れている」とコメントしてくれたのだが、これはそのとおり。情報の価値って何? それを経済的価値でとらえた場合に抜け落ちるものは? デジタルコミュニケーションの限界は? というあたりが私の関心だが、それを書いたのがこの章だから。師匠には学生時代に「お金儲けにも興味はあるが、そこをかなり批判的に捉える分裂的な佐々木くん」と言われていたのだが、20年前からつき合いのある柴内さんらしいコメントで嬉しかった。


また西垣さんは「この章で一番面白かったのは、集合性から個別性に向かうネット上のエゴコンテクスト・コミュニケーションが財になる可能性を指摘した部分」とコメントしてくれたが、この可能性こそが私の最近の大きな懸念。エゴコンテクスト・コミュニケーションとは、お互いの文脈に踏み込まない、自分の事情を優先し、それでいながら何とか関わりあおうとする表層的なやりとりである(詳しくは下記のトケコミブログの記事を参照)。実は、そういうデータこそがお金になりやすのではないかという気がしているのだ。『デジタルの際』が一般書だから、仮説的にポロッと書けた部分だが、その私の懸念を見逃さずに西垣さんに読み取ってもらえてこちらも嬉しかった。ここは具体的なリサーチに落とし込めたらぜひやりたいところである。


実は同僚であっても、教員同士は共同研究をやっていないと研究についてさほど話をすることはない。そういうこともあり、今回はとても良い機会であった。


学生が書いてくれた当日の紹介記事:
コミュニケーション学部教員が、ウェブをテーマに座談会「トケコミトーク」を初開催!|大学ニュース|東京経済大学

私が高校生向けに書いたトケコミブログの記事:
トケコミのめだま: 高校生・大学生はなぜツイッターを使うのか【トケコミのメディア研究】

『つながりっぱなしの日常を生きる』

草思社の三田真美さんより恵贈の1冊。

原題は"It's complicated" (2014). 「ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの」との日本語副題にあるように、ティーンのソーシャルメディア利用についての研究結果で、それは大人たちに見えているようには、あるいはマスコミで描かれるほどにも、単純じゃないのよということ。


著者はdanah boyd. Social Network Sites: Definition, History, and Scholarship (2007)やTweet, tweet, retweet: Conversational aspects of retweeting on twitter (2010)といった論文がある。若者研究の第一人者と呼ばれることが多いが、実は好き嫌いがけっこう分かれる人でもあるようだ。本書でも定性調査手法を使っており、どの程度の人がそういう傾向だというような数字が166人もインタビューしたくせにまったく書かれておらず、前半は極端な例のオモシロ小話と読めることは読めてしまう。

若者を擁護する彼女の論の中心は、大きく言えば、ソーシャルメディアという技術は若者のコミュニケーション様式に本質的変化をもたらしていないということである。つまり技術決定論に対する痛烈な批判で、少し挙例すると下のような話。


いわく、(1)そもそもフェイスブックのポリシーにしたがって実名登録なんてしていないことも多い(なんで実名で登録させんだよ、と抗っていいなりになっているわけではない)。(2)若者はそれなりにプライバシー設定を使い分けて誰に対して発信する情報かを意識している(よって万人に見えるものは他愛のないものと映る)。(3)ティーンがソーシャルメディアを利用するのは彼らが忙しくなったからと米社会のセキリティリスクが高まったからで、かつて費やしていた学校帰りの道草でのだべりをソーシャルメディアで行っているだけ(昔からあったものがネットに移っただけ)。


いわく、(4)「ドラマ」と呼ばれるネット上のパフォーマンスもまったくの愚行ではなく、それなりの意図がある(メッセージを持つものである。時にはいじめ)。(5)エスター・ハーギッタイの作ったデジタルナイーブ(デジタルネイティブのもじり)という用語のとおり、ソーシャルメディアやネットそのものをうまく使えていない子もかなりいる(新しいもの好きとそうでない人、社交へたと社交上手はいつの時代もいる)、など。


ただ(3)に関する彼女の立論には私は不満である。たしかにティーンのソーシャルメディア利用はこれまでの「道草でのだべり」の代替なんだろうが、それはティーンが孤独でいられた時間を奪っている。友人との会話も大事。でも一人になって内省し、自己と対話し、哲学することもティーンにとっては大事である。


だとすれば、たしかに若者のコミュニケーション様式にはソーシャルメディアは大きな変化をもたらしていないけもしれないけれど、若者の精神的成長には大きな変化をもたらしているといえるのではないか。時空を超えてあまりに手軽に繋がれる技術の弊害だ。もしその利用に手間がかかるのであれば、彼らはそこまでそれを利用せず、一人でいる時間を確保できたのではないか。


ゆえにティーンを擁護するのではなく、根っこはティーンが忙しくなった(大人たちが忙しくさせた)からと米社会のセキリティリスクが高まったから(そしてこちらもそうしたのは大人たち)にあるとはいえ、ソーシャルメディアにも問題はあって、「ティーンよ、一人でいる時間と友だちと一緒にいる時間をバランスよく過ごしなさい」という主張の方がまっとうだと思う。つまり前半は若者に擦り寄った単なるポジショントークとも読めてしまう。


この点に関しては、調査時期の中心が2010年までで、スマホへのフォーカスが少々甘い点とも関連しているのかもしれない。2010年までだとことティーンに限ると良家の子女以外はあまりまだスマホを持っていない。でもスマホになって、ソーシャルメディア利用時間はさらに増しているはず。つまり先程の孤独時間確保にはさらに大問題になっていると考えられる。


けれども後半、それも(5)については実に大きな問題とboydも捉え、まともな論になっているとの印象を持った。実は多くのティーンはデジタルナイーブに属するという指摘だ。さほどサンプルも大きくない私の経験則ではあるが、スマホのみでネット接続し、動画とソーシャルメディアメッセンジャーのアプリだけを利用している学生(このタイプの学生は「ネットでの協働」とか言ってもピンとこない)と、PCでのアクセスもそこそこあり、調べ物をしながら、自分の成果を時にはネットに公表し、フィードバックをもらいながら知識やスキルを上げる学生の間にはわずか3年ほどでも大きな開きが出る。後者の学生がスマホを利用してないのではなく、スマホでできることの限界やPCの方が創造的になれることをよく理解しているということだ。


つまり今起きつつあるメディア、デバイス、サービス利用にまつわる問題に、社会的にナイーブであることが大問題ということ。物理面でのデバイド(回線がある/回線がない)は少ないとしても、知らないうちに成果面でのデバイドは広がりつつある(可能性がある)ということである。この点についてはboydもとても危惧しており、私も非常に似た立場をとる。だけど、であるからこそ彼女の前半のティーン擁護論とのトーンの矛盾が指摘できるのだ。


そういう意味では帯の「デジタルネイティブなんて、幻想だ。」は的確で、本書は広く年長者がティーンのメディア利用に関して考える上での手引書になる。ネットはAIではなくIA。Artificial Intelligence(人工知能)ではなくIntelligence Amplifier(知性増幅器)。単にティーンの生態を知るにとどまらず、ソーシャルメディアを使う時間以外のネットの使い方についても子どもと関わる大人にはこの本を通じて考えて欲しい。そしてそれは大人であるあなた自身にとっても大問題であるように思う。